敬子ルイ(たかこ・るい)
NGO「TALANOA Community Trust」理事。二児の母。東京生まれ東京育ちで、20代にパリ留学後、ビジネスマネジメントを長く生業としてきた。結婚後、夫(当時)がラグビー選手だったことから移籍で岩手県釜石市へ。5年間を過ごす中で2011年東日本大震災を経験した。2015年に夫の実家であるトンガ・ヴァヴァウ島へ移住。2017年にはNPO法人「VFCP」(ババウ島未来を作ろうプロジェクト)を共同設立、2022年1月に「フンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山の大規模噴火」。同10月、NGO「TALANOA Community Trust」を設立。家族は娘・美麗さん、息子・龍さん。
RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。だけど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているんだろう。
敬子 トンガタプ(首都のある本島)から船で一日かかるヴァヴァウ諸島が私の住まいですが、ここは元々、優秀な選手を生む土地の一つだったと聞いています。子どもたちは試合、練習でなくても、学校のちょっとしたスペースで制服のままペットボトルをボールがわりに夢中で遊んでいます。そんな子たちをサポートしたいという気持ちは以前から持っていました。
敬子 ティシは中学生年代からキャプテンを務めていて、気持ちの面でもプレーでもラグビーでは中心人物。実際に、私が橋渡しをする前にニュージーランドの奨学金を得る話があった。それが、私たち島の人間からすれば理不尽な理由で破談になりました。田舎の選手ですから人脈も太くはない。事情も十分に知らされないまま、諦めるしかなかった。その後 彼は、親戚の農園を手伝って、学校に通いながら、早朝に一人でビーチを走ってトレーニングを積んでいました。
敬子 国自体がロックダウンして、島に日常の物資が届かない状況が続きました。銀行が機能しなくなるなど、混沌としていました。私は子どもたち(敬子さんの娘、息子)と3人で話して、彼の動画を発信する活動を始めました。
敬子 シンプルに「この子にラグビーをさせてあげたいな」って思いました。トンガの人たちって、ふだんはのんびりしていて、どんな状況でも「大丈夫、大丈夫…」(笑)な感じ。怒りとか悲しみを表には出さない。表現する術に疎いのかもしれない。でもあの子は、ラグビーの話をする時だけは「本当はそんなことを感じていたんだ」というような言葉や表情を見せるんです。
「絶対に負けたくない」。「悔しい」。それは一度留学がふいになった経験も重なって、自分の環境に対して秘めた思いだったかもしれない。この人には今、ラグビーしかない。ラグビーを思い切りさせてあげたいって思いました。
敬子 本人だって期待しますよね。ところがその後もすんなりは行かなくて。日本留学のための最終面接がリモートで予定されていたのが2022年の1月18日。噴火が起きたのはその3日前でした(フンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山の大規模噴火)。島のネット回線がうまく繋がらなくて、面接が何度も延期になりました。最後は、村に働きかけをして、他の回線を制限して彼の面接のために通信を集中させてもらいました。画面越しだったけれど面接の方から「兄弟、家族のように扱うから、どうか安心してほしい」と言われた時、彼自身は淡々としていた。
敬子 横にいたお母さんが、本当にほっとした顔をされてた。彼女は、子どもの学校やラグビーのために黙って努力されていたから。ただでさえ物も仕事も限られている中、学校で履くスリッパやシャツの心配をして。留学はラグビーでできても、学校を卒業しなければその資格がなくなってしまう。また留学の話がどうなるかも分からない中で、子どもたちの将来のために、本当によく踏ん張られていた。
北川茉以子(RCCAメンバー・一男一女あり) 頭が下がりますね。
敬子 ティシの合格のニュースは、島のラジオで流されました。みんな喜んだし、勇気づけられる思いでした。本当に、スポーツって、本人にとっても周りの人にとってもすごいパワーになる。特にあの島で、ラグビーはみんなの光になる存在。でもね、だから親が「やったほうがいい」って押し付けても、力が伸びるとは限らない。やっぱり、自分自身が心から望まないと。
北川 敬子さんは美麗さんと龍くん、二人のお子さんと暮らしている(13歳と10歳)。そもそも日本で生まれた二人(6歳、3歳)とトンガに移住することになったのは、旦那さん(当時)について行った格好。その後に離婚があったとき、子ども二人がヴァヴァウ諸島に留まることを望んだのですよね(別インタビューに詳しく)
敬子 正直にいうと「ここで一人で子育て? 一体どうなるんだ」と思いました。だけど、子どもたちに「手伝いも、全部やるから」と食い下がられて。 子どもの健康のことと、子どもたちの意志。それがヴァヴァウに残った理由です。
北川 日本で暮らそう、帰ろう、とはならなかったんですね!
敬子 悩んだけれど「全部やる、と言うからには、やろう。一緒に」と、答えました。子どもたちも、あの時にはらを括ったんだと思います。今、見ていても、学校も生活面もすべてに一生懸命やっているなと感じます。それにしても、日本の暮らしを知っていながら、電気もない場所(当時)に、よく決断したなとびっくりしました。
北川 決断…。子どもの方の決断ですか。子どもの意見を聞いてみることはできても…敬子さんの思考は興味深いですね。
敬子 私は楽しんでいます。子どもと私は運命共同体。3人で一つ。いつもファミリーミーティングをしながら3人で決める。決めたことに対しては仕事分担をする。私的にはラクです。肉体的には、子どもの送り迎えでボートを毎日漕がなきゃとか、いろいろ厳しいこともありますけど(笑)。精神的にはラク。へんぴなところに住んでいるから、子育てがつらいかって聞かれることがあるけれど、全然つらくない。つらい時があるとしたら、3人ともつらい。
日本の社会ではこれまでも今も、虐待や、その果ての死とか、あるけれど。心痛みます。どんな事情で、子育てを楽しめなくなってしまったんだろう。だからって、過保護にしろと言うことではなくて。いまは虐待までいってしまっていなくても、つらさを抱えているお母さんには、なんとか本来の喜びを思い出してもらえないかと、考えてしまう。根底にあるのは本来はシンプルなこと。大切な人が自分の腕の中で眠っている、それだけで本当に幸せ。
タラノア「TALANOA Community Trust」というNGO(国際的課題を解決する非政府組織)を2022年にトンガで立ち上げました。コロナ、噴火を通じて、それまで見えなかったトンガの問題や課題が見えたといいます。特に胸が詰まる思いだったのは、噴火のロックダウン下のこと。自身、家族の障がい や育児などで社会から切り離され、道路もあやしく周囲からは助けの手が届かない人たちに接したことでした。
タラノアには学生の教育に関わる「ユース」という部門が設けられています。トンガの教育にはない、スポーツ(体育)において、子どもたち、若者をサポートしていこう。それを将来は、音楽、美術に広げていく。スポーツなどの文化活動が多くの子どもたちをより伸ばす土壌になる。教科教育だけでは測ることも、また助けることも難しい子たちの進路を切り拓くことがある。あるいは、本人や家族を支える糧をもたらすことになるかもしれない。
「制服のまま、ペットボトルをボール代わりに遊んでいた。あの光景をまた子どもたちに取り戻してやりたいと思った」
敬子さんが、どこか殺伐としたコロナ期にトンガの地で抱いた「願い」は、昨年、タラノアで始まった子どものためのラグビーアカデミーに連なっています。毎週土曜に子らが集まるグラウンド。そこには日常の何気ない楽しみがあり、友達とのつながりがあり、プレーを通じて身につける規律など、将来を生きるための学びがあります。