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敬子ルイさん(RCCAメンバー)「ラグビーファンじゃないけれど」
〜コミュニティの背景がわかる、RCCAメンバーのストーリー〜
2023.3.16
INTERVIEW

敬子ルイ(たかこ・るい)
NGO「TALANOA Community Trust」理事。コテージ&ホエールスイム 「CocokaraBeach」代表。二児の母。東京生まれ東京育ちで、20代にパリ留学後、ビジネスマネジメントを長く生業としてきた。結婚後、夫(当時)がラグビー選手だったことから移籍で岩手県釜石市へ。5年間を過ごす中で2011年東日本大震災を経験した。2016年に夫の実家であるトンガ・ヴァヴァウ島へ移住。2017年にはNPO法人「VFCP」(ババウ島未来を作ろうプロジェクト)を共同で設立、2022年1月に「フンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山の大規模噴火」。同10月、NGO「TALANOA Community Trust」を設立。家族は娘・美麗さん、息子・龍さん。

RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。だけど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているんだろう。今回は生命力と共感にあふれ、移住先のトンガで活動する女性を紹介します。


人気テレビ番組などでも取材を受けているので、敬子(たかこ)さんを知っている人は多いかもしれないですね。ただ、ラグビーとこれだけ携わっている方だとは。

ラグビーに関わる方にはこれまで本当に支えていただくことが多くて、すごく感謝しています。ただ申し訳ないのですが、私自身はラグビーの大ファンとかではなくて…。

いえいえ、お気になさらず、です。当時のだんなさんがラグビー選手だったことから、敬子さんは釜石での生活を経験しているのですね。そこで震災に遭った。この苦難を一緒に乗り越えようとしてきた人同士の繋がりは強いものがあるのでしょうね。

一生大切にしたいと思う仲間がいます。

そして、ここトンガでも噴火があった際(2022年)、釜石シーウェイブス(新日鐵釜石をルーツとするチーム)がきっかけで知り合った方々が、心のこもった支援をしてくださいました。

トンガには、今、お子さん二人と住み始めて何年目でしょう

長女の美麗と長男の龍。二人が6歳、3歳の時。二人は今13歳、10歳になります。3人で生活するようになってもヴァヴァウに残ったのは、第一に二人の健康のためでした。かつてはアレルギー体質で皮膚の痒みとの戦い、夜になると鼻血が出ました。日本にいたころは治療に奔走したのですが、今は二人ともなんともありません。水なのか、空気なのか。特に東京にいた頃とは比べられないほど。それが一番大きな要素です。こちらに来てからはお薬フリーです! もう一つは、当時の二人が涙ながらに「ヴァヴァウに暮らしたい」と願ったから。六つと三つの子がポロポロと。子どもながらにいろいろ感じ取っていたのでしょうね。

マネジメントからハンティングへ

東京育ち、学生時代はパリ留学、仕事ではマネジメントにあたっていた敬子さんが、ヴァヴァウで暮らす。このギャップをどう説明したらいいでしょう。

はい(笑)、そうですよね。まずヴァヴァウ島はトンガの離島で、本島のトンガタプから275キロ離れています。フェリーでは18時間から24時間かかって…

! トンガ国内を船で18時間、ですか。

今、私の家があるところはジャングルでした。森を切り拓いて家を建てました。水道も電気もなく、車が通れる道路もありません。

ヴァヴァウ島内の移動は…歩きで?

歩いていけないところへは船で行きます。学校などがある村へは海岸線に沿って。大体急いで7-8分かな。途中で(息子が)釣りをしちゃうと30分とか。だから子供の送り迎えで毎日2往復。船は私のママチャリですね。あはは。

ワイルドですね。

息子の龍はすっかり順応して、今ではウチ1番のハンターです。野豚を狩ったり、さばいたり。鳥もしめる。特にコロナ感染の激しかった頃は国そのものがロックダウンして、いろんなものが手に入らなくなりました。食べ物は自分たちで調達していました。

移住して、コロナがきて、噴火があって。その時その時は必死だったし「まさか私が日がな木を切って暮らすだなんて」と思っていた。けれど、今振り返ってもここに残ってよかった。子供たちの心はこの土地にある。元気に生きてるので。

釜石で人生が変わった

敬子さんは2011年の3月を東北で過ごしているのですよね。

はい。そうです。

震災のお話を聞いてもよろしいですか。

大丈夫です。3月11日は、新日鉄釜石のオフィスにいました。まだ小さかった美麗を抱っこして、夫と一緒に。ビジネスだったので二人ともスーツを着ていた。津波警報が鳴り、「じゃあ、逃げるか」って歩いていました。たまたまバスが後ろから来てくれて、それに乗って松倉(グラウンドやクラブハウスがあり、津波被害はなかった)へ向かいました。後で聞いたら、それが津波が来る前の最後のバスだった。松倉のクラブハウスで、しばらくみんな一緒に暮らしました。その後の生活でも、いろんなことを見ました。

あの経験がなかったら、私の人生はきっと全然違うものになっていたと思います。あの経験があったから、生きることを考えるようになった。何のために生きるのか、日々考える。生きていることの感謝は一度も忘れたことはありません。

日本に比べると、ここヴァヴァウはとても不便です。それでも食べられるものがあって、大切な人が腕の中にいる。それだけで幸せを感じる。2011年にあれだけ人が亡くなって。悲しんでいる人の姿を目の当たりにして。自分は生かされていると、今も日々実感しています。子どもたちには、ここで、不便でも、もしも物質的に貧しい状況になったとしても、生きる力をつけさせてあげたい。

食べること一つとっても、命と向き合いますね。

食べるって、生きるものをいただくってことですよね。日本にいると、その実感がないでしょう? 食べ物は全て加工されていて原型を留めていない。食べるために手も汚さない、臭くない、生き物を殺しているという罪悪感もない。今は、そういうものが本来はあるべきだと感じる。変な話なんですけど、私、こちらに来てから魚卵系が苦手になってしまった。釣った魚が卵を抱えていると、なんとも言えない気持ちになる。これでどれだけの命を絶ってしまったんだろうと考えてしまう。理屈は後で、体感なんです。この暮らしがくれた感覚。

魚の身をいただくだけで十分なのに、そのことで命のサイクルを切ってしまったような…。

そうそう。人間は矛盾している。いつも家族のために鳥をしめてくれている龍は、ケガをしているヒヨコを見ると一生懸命に治療して、育てたりする。私たちは食べるために殺す。自分たちが嫌いな物もバンバン殺す。どれもが命。それなのに、ちょっとフワフワしていたり、大きかったりすると「かわいい」という感情を抱いて愛でたりする。人間が決めた価値。それは社会によっても違ったり。だから自分たちが納得のいく、とりあえずの線を引いて生きている。何が正解か、分からないです。分からないけれど、それを考えたり感じたりしているのと、何も知らないのとは大きな違いになる。生きる体感、感覚の違いになると思う。

噴火が起きて、知った。動いた。

2022年1月15日、トンガに移り住んだ敬子さん親子を今度は、大きな噴火が。

心の余裕がありましたね。釜石での経験から、大きな爆音が鳴り響く間にいろんなことが整理できていた気がする。シミュレーション。津波って一度大きく潮が引いてから来るんですよね。だから、まだ「すぐ」ではないって思いました。大きな爆音と爆風を感じたけれど、海を見ながら、娘と息子には「大丈夫だよ」って言ってあげられた。いろんな準備をして、高台に一時は避難しました。電気が使えなくなったけれど、それは移住した当初に戻っただけ(笑)だったので、なしでもOK。食べ物はハンティングでOK。私たちは落ち着いていました。

ただ、そこから「今、困っている人を助けよう」と思ったら、大変でした。

物資が届かない。本島からのフェリーが、噴火とコロナでロックダウン。電気とネットの要因で銀行が機能しない。すると、現金を持っているお金持ちは買い占めをする。ない人は物が何も手に入らない。その時に、日本やNZからダイレクトに支援をしてくださった皆さんには本当に感謝しています。同時期に、ここで苦しんでいる人たちの姿はまったく表に出てこないことに違和感を感じました。

やっと手に入れた物資をトラックに積んで、村を回りました。障がい者のいる家、子どもがたくさんいる家、高齢者だけの家に声をかけて回りました。状況は、ひどかった。怒りで、涙が出ました。若さや体の自由がある人はまだ、がんばれば、ハンティングでも何でもして食べていくことができる。そうでない人、がんばれば…の条件で生きてはいない人たちがいる。物資が底をつくまで村を回りました。回れなかった家があります。車が入れない地域もあります。ましてヴァヴァウは60もの島でできた地域です。私は噴火を通して、それまでトンガで暮らして目にしてこなかったことを知りました。見て見ぬ振りはできないと思いました。

2022年10月には現地の人たちと一緒に、NGO(国際的課題を解決する非政府組織)を立ち上げます。

タラノア(「TALANOA Community Trust」)といいます。今だけではなく、継続的に、ここで何かをしなくてはと思った結果でした。

タラノアの活動の一つにユース(Youth Development)があります。トンガの教育には、スポーツや音楽や美術はない。トンガを見渡しても、その人が就く職業には地域や階級によってすごく差がある。極端に言うと、今、物がないところに物を届け続けても構造は変えられない。子どもたちが自分で夢や目標を持って生きていける何かを届けないと、と思いました。自分で世界を広げて、家族を養って、また次の夢を生み出していけるようなもの。

そう考えた時、ここトンガはスポーツ、特にラグビーはメインといえるものでした。小さな子たちはペットボトルでゲームをしています。ボールでラグビーをさせてあげたい。釜石で関わった皆さんが、いろんな用具をヴァヴァウに送ってくれました。おかげで、ヴァヴァウにはアカデミーができました。少しずつですが、「そこに行けばラグビーができる」という場ができつつあります。このように物資がスムーズに届くのも、NGOを立ち上げて良かったことの一つです。

ラグビーは島の人たちの希望になれる

流経大の1年生、ティシレリ・ロケティは、敬子さんがヴァヴァウから送り出した選手ですね。

コロナの時期に私と子どもたちで動画を作ってアピールした選手。世界からオファーが来ましたが、彼は日本を選びました。彼のお母さんのがんばり、彼自身が諦めなかったこと、そして多くの方の支援で実現した留学でした。

その流経大合格のニュースは島中にラジオで流されました。島の人たちはすごく喜んでくれました。ラグビーで認められヴァヴァウから飛び出していく選手はこれまでもいたのですが、その行き先はトンガタプ(本島)でした。彼のように直接、海外に請われていくことはなかった。ラグビーが好きとか関係なく、噴火からの復興の中途にあった私たちにとって、とても勇気づけられるニュースでした。

この先アカデミーで育つ子どもたちにとって、流経大のティシはスターの一人になるかもしれません。自分もいつかきっと。そう思えて、自分の未来を作っていく喜びは、この先、子どもたちをいろんな面で助けてくれますよね。ラグビーで身につけた規律、何より、いつも助け合う仲間ができます。

私がRCCAと繋がりを感じるのは、プレーとかゲームとかよりも、ラグビーの精神や、ラグビーが照らすものを見ていること。それは、たとえば私たちヴァヴァウの島々の中でもすごく影響力を持っているんです。島で娘、息子と生きる私にとっては、そこにすごく大きな期待感がある。ラグビー大ファンではなくて、申し訳ないんですけれど・・。


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