浅見亮太郎(あさみ・りょうたろう)
筑波大学4年→筑波大大学院/2002年12月14日生まれ、22歳。兵庫県出身。SO,CTB,FB。178cm、90kg/西神戸ラグビースクール(小1~)→流経大柏高→筑波大体育専門学群→同大学院/流経大柏高では1年時(相亮太監督の就任3年目)から出場、同校初の花園4強を経験。3年時は共同主将としてチームを引っ張り8強。筑波大でも1年時から出場を重ねた。卒業後は大学院進学予定。リーグワンチームでのプレーを目指している。
RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。けれど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているのだろう。中学時代から自分の羅針盤で進路を見定めてきたアスリートは、大学卒業とともに独自の道を進むことに決めた。思い描く、「三兎を追う」イメージについてきいた。
私自身も、競技の継続が自然な流れかなと考えていたのですが、就職活動の過程でいろいろなことを感じて、大学院で勉強することに決めました。専攻は運動栄養学。チームビルディングについても深く勉強したいと思っています。さらにチームビルディングのスキルをスポーツの世界で生かす事業を実社会でやっていきたい。できれば学生のうちに起業して学びを早めたいと考えています。
そしてもう一つ、どうしても、もう一度ラグビーに挑戦したい。私は高校大学とも1年時から出場機会に恵まれてきたのですが、大学3年、4年はケガも重なってリザーブが多く、思うような貢献ができませんでした(4年時の関東大学対抗戦は7試合中2試合出場)。チームは対抗戦6位で終わりました。4年のシーズンが終わって、自分は、このままでは終われないという思いが強くなりました。そんなタイミングで、プレーできる環境を求めて動き始めました。ラグビーのことだけを考えれば、私は、もうすでに回り道をしているのかもしれません。大学院に通いながら、プロ選手としてリーグワントップレベルを目指したいと考えています。
これまでも、やりたい! と思うことにはフタをせずに取り組んできたので…。確かにハードルは高いと思いますが、やるしかないかなと。
中学時代から、関東大学対抗戦に対する憧れがありました。強い大学で力を試したい気持ちが強かった。そのためには、関東の高校がいいのかなと。祖父が埼玉にいることもあって、たまたま体験練習に行った流経大柏で、BKの先輩方のプレーに衝撃を受けました。ここで挑戦しようと考えました。
もともとは、ラグビーは小学生(西神戸ラグビースクール)まででやめよう…と考えているような子でした。ラグビーが好きではなかったのかもしれません。小学生時代はキックもできない、身体も細くて体を当てられない、チームの落ちこぼれでした。小6の1年間は一度も試合に出ていません。同じスクールの二つ上には李承信さん(日本代表/コベルコ神戸スティーラーズ)、谷中樹平さん(トヨタヴェルブリッツ)はじめすごい先輩たちがいて、ただただ憧れている状況でした。
それでも、中学でプレーを続けようと思えたのは、当時の中学(西神戸RS)のコーチ・浦瀬成久さん(故人)の存在がすべてでした。
浦瀬さんは、私の姉の友達のお父さんで。6年生の頃、ある時「亮太郎、飯にいこう」と誘ってくれた。そこで勧誘をされたわけではなくて、ただただ、「周囲への感謝」の大切さについて、熱心に話してくれたんです。大人が本気で語りかけてくれていることが、12歳だった自分にもすごく伝わった。自分はそれがとてもうれしくて、どうしてか、「この人と一緒にラグビーがしたい」「ラグビーでがんばって、この人を喜ばせたい」と思ったんです。
それ以降は、時間を作ってひたすら苦手なプレーの練習をしました。コンプレックスが得意なことに変わっていく。この時の体験が、その後の人生を変えてくれました。今でも自分の中で重要な体験になっています。
高校は、1年時は全国4強(高校ラグビーの集大成である花園大会)に初めて入ったのですが、これは二つ上の先輩たちの成し遂げたこと。3年時は8強で目標としていた日本一には届きませんでした。リーダーとしても選手としても足りないことを感じました。
筑波を目指したのは、BKが強いチームに行きたかったからでした。筑波の、ラグビーの捉え方にも魅力を感じました。戦術面で他の大学とはちょっと違うことを考えている。自分もそこでやってみたいと思いました。
…いえ、実は私、スポーツ推薦ではなくて。
いえ、AC入試という、スポーツとは別の推薦のようなものを受けました。全国大会前には合格をいただいていました。自己推薦の一種で、書類提出と面接と、口頭の試験がありました。
シンプルに言うと卒業論文みたいなもので、自分が入りたい学群に合うテーマ設定をして、つたない内容でしたけど、論文のようなものを一本、提出しました。大学で書いた卒論よりも長かったですね。必死だったんだと思います。
キックの飛距離向上のためのポイントを探る内容でした(「ラグビーキック戦術を活かすためのキック飛距離の改善について ~キックフォームについて探る~」)。もともと自分用にキックの映像を撮りためてあったので、それを活用しました。高校は3人部屋の寮生活だったのですが、相先生(あい/流経大柏高ラグビー部監督)の部屋のそばに個別のスペースをお借りして、練習が終わってから集中して準備できる環境をいただいていました。
筑波は寮がないので、一人暮らしでもちゃんと体は大きくしなくちゃと思い、運動栄養を選んでいました。ところがその後…これは! という、もう一つの分野に出合ってしまいました。学群(4年)の卒論はもちろん運動栄養で書きましたが、並行して、野外運動研究室の渡邉仁先生にご指導をいただいて。
そうです。学内に「野性の森」という施設があって、そこでフィールドワークなどがあるのですが、私は1年時の必修授業で、野外教育のなかでもチームビルディングに興味を持ちました。自分でもいろいろ調べて、2年時からは渡邉先生に直接お世話になって。菅平の実習や、子どもたちのためのセッションにも参加させていただきました。
思い返すと、私は小中時代から周りにすごい選手に恵まれて、高校でも歴史を突破するような先輩方の背中を見てきました。高校同期にはワーナーもいました(ディアンズ/日本代表/東芝ブレイブルーパス東京)。筑波の先輩たちにも、より高いレベルで、リアルに、チームの中で人が動いていく姿を見せられ、大きな影響を受けました。
つくづく、チームって「人」次第だな、関係性次第だなと思うんす。
たとえば同じ学校でも、キャプテンとか、その代(4年生)とか、メンバーによって、まったく構成が違う。あるチームは絶対的なリーダーが頂点にいて、そこに付いていく三角形のようなカタチ。翌年のチームは一転して、1人のキャプテンが円の真ん中にいて、みんながそれをサポートしていくスタイルだったりする。組織が動いていく仕組みを言語化できたら、いろんな課題が解決できて、パフォーマンスを高めることもできる可能性があります。どこまで考えても、結局人間がやることだから、理屈じゃない部分もある。すごく面白い。
3月中旬には、チームビルディングについて、日本サッカー協会のS級コーチの研修に立ち会わせていただきました(S級コーチ養成講習会 ASE・Proライセンス養成講習会)。サッカーでは指導者資格の要件にASE(社会性を体得する活動)を採り入れている。スポーツの現場で、そのノウハウが生かされていくことに将来性を感じます。勉強を進めつつ、いずれはこれを事業化していきたい。まずはラグビーで、すべてのチームに「チームビルディング・コーチ」がいる状況を作りたい。
はい。新たなチームでプレーするべく、お話をさせていただいているところです。今やるからにはトップを目指したい。2025-26シーズンからプレーできたらと希望しています。
チームビルディングという視点では、もともと筑波大に魅力を感じたのも、国立で唯一、大学日本一を目指す存在だったから。全国的には弱小校と呼ばれる高校からも対抗戦の大学に人が集まって、決して推薦組だけでなく、チームを構成している。よくメディアで取り上げられる「ラグビー寮がない」ことは、筑波の特長でも文化でもありますが、ふつうに見ればデメリット。環境として恵まれているとは言えない。ただ、こんなふうに「カネ、ヒト、モノ」の面で劣っていても、チームの力でトップを目指すところに存在意義があると思っています。
今後の自分のラグビーのチャレンジに対して、自分が歩んでいくプロセスには今、すごく魅力を感じています。ラグビー的にはストレートでトップへ、とはなりませんでしたが、自分にとっては必要なことだったかもしれません。これまでの自分の道のりとも響くものを感じる。
二兎を追う者は一兎をも得ず、の格言には続きがあって、「三兎を追う者は猪を得る」らしいんです。僕は三兎を追う道を選びます。少し欲張りかもしれないし、「そんなに甘いものじゃない」と否定されて応援していただけないかもしれないですが、これが今…、今の僕です。
大学時代は浅見さんに、チームビルディングという新しい知の世界を見せてくれた。グラウンドでの一瞬一瞬には集中しながらも、ラグビー以外に目を向ける機会を持てたことは、浅見さんにとってラッキーだった。大学後半はアスリートとして苦渋の時期を過ごした。同時に学びへの関心は深まり、卒業後の自分を方向付けるものになった。
若者にとっても、それ以外の者にとっても「今しかできないことを大切にする」のは、明確なようで判断が実に難しい。浅見さんの場合は、内燃するプレーへの情熱に、あとから気付かされた格好だ。いったんは卒業後のプレーを「断念」、そして「復帰」という経過は、周囲を含め一筋縄でいかなかったに違いない。亡き恩師がいつか教えてくれた、感謝の大切さを胸に今は走るしかない。目の前には兎のしっぽたちが踊っている。