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喜連航平(横浜キヤノンイーグルス/RCCAメンバー)「だから、変われた」といつか言える日。
〜コミュニティの背景がわかる、RCCAメンバーのストーリー〜
2023.6.30
INTERVIEW

喜連航平(きれ・こうへい)
リーグワン2022-23シーズン3位の横浜キヤノンイーグルスに所属する現役選手。SO/一般社団法人Joynt(2023〜)代表理事/1995年6月25日生まれ、27歳。175㌢、83㌔。兵庫県出身。伊丹ラグビースクール(幼小中)・天王寺川中→大阪桐蔭高→近大→NTTコミュニケーションズ シャイニングアークス東京ベイ浦安(4シーズン/現・浦安D-Rocks)→横浜キヤノンイーグルス(2022-23シーズン〜・プロラグビー選手)。選手以外の活動は幅広く、特別支援学級、長期療養施設の子どもたちへのラグビー体験セッションから、大人のコミュニティを重視した「おとラグ(おとなラグビーコミュニティ)」、ラジオまで。社会貢献、イベント、研修講師と精力的に活動する。

RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。だけど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているんだろう。今回はリーグワン強豪の選手・喜連航平さんの活動とそのモチベーションに迫ります。


特別支援児、長期療養児の体験ラグビー、おとラグ、学生、企業への研修と、フィールド外でも幅広く活動していますね。

チームの社会貢献事業として取り組んだのが始まりでした。今年、joyntという法人を立ち上げて、オフフィールドの活動を事業として展開しています。

「おとなのラグビーコミュニティー」は、RCCAに近いものがあるのでしょうか。プレーはするけれど、コミュニティー重視。

大人こそ、コミュニティー、仲間づくりを求めているのでは、と。ラグビーって、プレーを始めるのは子どもの頃であることが多いと思うんですが、大人だって始めてみればいいと思う。観ているだけより、自分でプレーしてみることで、楽しさももちろん味わえるし、ラグビーの精神性もより深くわかる。それを媒体にして、その場を、人との繋がりを楽しむ。

僕自身も幼児の頃からラグビーを始めましたけど、プレーの場にいるのは厳しい父親で、おかん(母親)とはパスひとつしたことがない。これからは、親も一緒に楽しめたらいいなと思うんです。

戦っている人たち との関わりを

そのほかにも、トップアスリートに学ぶメンタルヘルスといった講演会も。対象は、学生や社会人1年目の人たち。コロナのこともあって、就職に対するプレッシャーや日々の仕事で悩む人は多い。心を病んでしまう人も少なくない。僕らスポーツ選手も、日々プレッシャーと付き合いながら生活しています。体はゴツくても心は、皆さんと一緒。参考にしてもらえることがあればと。

本当に幅が広い。社会人の1年目から熱心に取り組んでいるのは、学生の頃から興味があったから?

オフフィールドの活動の一番のきっかけは、自分の家族のことなんです。うちは、母が若年性のアルツハイマーで。発症が、自分が中1の時だったので、特に思春期はそれをまったく受け止められなかった。それを、避けて通ってきたことを悔いる気持ちは大きくて。

まずは、親に会いに行くこと。それから、母のように、いつも戦っている人たちに対して自分のできることをしようと思いました。

…興味じゃなく、動かずには いられなかったんですね。

それまで、自分は母に向き合ってませんでした。社会貢献って偽善だとか言われがちですけれど、いいことをしたいんじゃなく、自分にできること、思いを持ってできることをしたい。

12歳、13歳で母親が病気になるのは、精神的にしんどかったでしょうね

大学が終わるまで向き合えず、でも心の中にはずっとあったんで、社会人になるタイミングで会いに行ったんです。初めて。

! それまで、一度も会っていなかった?

はい。僕、母親っ子だったんですね。おばあちゃんが同じ病気で亡くなっていたし、母がその先どうなるのか、すごく絶望感がありました。

そんな中で、家族が母親を病院に連れて行くこと、薬を飲ませること、すべてが“そちら”に向かっているような気がして、反発していました。家族は病気を受け入れて世話をしているだけなんですが、僕は、なんでそんなことすんねん、としか思えなかった。

一方で、中1から一度も会っていないけれど、もしラグビーで有名になったら、覚えていてくれて、何か変わるかもしれないとか。それで頑張れてた面はあります。ラグビーなら自分を表現できる。やっている間は何も考えず邁進できる。がむしゃらにやって、悔しかったり、仲間と喜べたり。

だけど、やっぱり大人になるにつれて、病気の方の現実を理解するようになって。会っておかな、という気持ちが大きくなっていきました。ただ、きっかけがなかった。

そのきっかけが、大学卒業。

僕は完全に、忘れられていると思って会いに行った。そしたら、すごく笑ってくれて、それが自分の中の母と違わなかった。覚えていてくれた。何を思おうと、そこから僕が母とできるのは、会うこと。次に、自分でも何かしたいと思うようになりました。ラグビー以外のことでも行動するようになった。それまで、ラグビー以外に興味なかったですしね。

もともと、高校(大阪桐蔭)からの進学も、東京に行くつもりでいました。でも母親のことはその時も頭にあって。万が一何かあった時に、近くの方がいいなと。会ってないからこそ、そう思ったのかもしれません。

選手としては不純な動機でしたが、近大という選択は自分にとって良かった。いろんな人と会って、鍛えられました。近大って、寮の同じ部屋にプロゲーマーがいたりするんです。練習への意識も高校までとまったく違うし、ギャップがすごかった。受け入れるの、初めは難しかったですけど、大学で頑固さみたいなところは、少し変わりました。

社会人になって、「外」の人生が始まった

そのステップがあって、卒業時にお母さんと会えた。社会人を前にして、さらに大きな転機になったんですね。

フィールドの外につながる話が、もう一つあります。僕、プロ契約でトップリーグに入るはずがひょんなことから社員で入ることになっちゃったんです。だから、一般の社員の人と最初の研修に行くんですが、これがまた別世界で。

高専時代からガチガチにプログラムやってきてる人とか、Googleの話から自分の大きな夢を語る人とか。自分はそういう話を聞くの結構好きで。研修ではすごく刺激を受けた。

同時に、これが同期か、と。会社員として生きていくと覚悟して入ってみたものの、こんな優秀な人たちに囲まれて、同じ土俵は無理やな!と思いました

ラグビーがありますよね。

いえいえ、ラグビー以外で強みになる何か。そこに、自分がその時にやろう! と思っていたことが重なりました。

グラウンドと会社の他に、地域があった。自分は「外」に出ようと。高専の人もGoogleの人も、会社の外には出てこないだろうと。

僕の1年目は、ちょうどチームが浦安市にグラウンド移転して、自治体とのつながりを求めていました。自分自身、母のことがあったし、社内の同期の顔も見えた後だったんで、思いを込められるものを、自分の活動のつもりでやった。いろいろ連れて行かれるだけでなく、提案もしました。一般の子ではなく、特別支援や長期療養の子たちの体験ラグビーを選びました。

会社の仕事は定時に終わって、空き時間で、いろんな事業所や市役所に足運んで話を聞かせてもらいました。企画をまとめてチームに出してました。すごく喜んでもらえました。

自分のポジションを作ってしまった…

ラグビー選手と会社員の混ざった感じですかね。リーグワンになって、プロ選手って謳えるのも、地域の人に喜んでもらう上で、いいタイミングでした。

 社会貢献の活動は、シャイニングアークスというチームが終わるまで4年間続けました。選手会長もやって、参加するというよりは活動をドライブするようになった。チームの中の意識が高くなって、これから、という時にチームが再編になった(浦安D-Rocksへ)、自分は移籍を選択しました。

キヤノンイーグルスへ。どんな選択でしたか。

D2に落ちる前に外でチャレンジしたい意向は伝えていました。選手としても、人としても。プロ選手になって、イーグルスに入って、より発信するようになったし、ファンの人とも触れあう機会が増えた。おとラグは1年に12回開催して、のべ430人ぐらいの参加者がありました(2022年度)。

今年(’22-‘23)が移籍1年目でした。選手としてのクオリティはめちゃめちゃ上がっています。トップ4に邁進するチームの中でプレーしている(取材は5月)。1本目のSOは田村優さん、2本目はフルバックからスライドする小倉順平さん、自分はその次に名前が入ってくる位置。個人的な課題も提示されて、やることは明確です。ラグビー人生としても、選手として一つのピークに入る時期に、こうしてチャレンジする場をもらえている。すごく充実しています。

人は、きっかけを探している。その手伝いがしたい

外でいろんな人に会って気づくのは、自分が大人になるまでずっと欲しかったのは、きっかけだったなということ。変われない自分がいる、けどずっと気持ちを抱えていたら、きっかけをもらえた。そういう人ってたくさんいると思う。

多くの人が何かコンプレックスは持っていると思う。特別支援の子たちだって、今はまだ感じていないかもしれないけれど、大人になるにつれて自信が萎んでしまう時は来ると思う。そこは僕らも一緒で。そんな時に、あれは楽しかったなあって思える時間を作りたい。その思い出が僕らを救ってくれる気がします。それでまた思いを持ち続ければ、自分にとっての、転機を作れる。

喜連さんご自身の最大のきっかけは、母親に「初めて」会うことだった。自ら、きっかけを迎えるアクションを起こすには、とてつもない勇気が必要だったでしょうね。

おばあちゃんが亡くなった時に、母親が僕の前でだけ泣いて言ったのが、『こうなりたくない』というような言葉だったんです。それがずっと自分の中に響いてました。母が病気になって少しずつ変わっていく過程で、みんなはそれを受け止めていく。だけど、僕は母の思いを知っているんで、おかんが「なりたくない」って嫌がってたことを、俺は認めない――それを貫きたいと思っていました。

それと、会いに行かなかったのには、実は、忘れられる怖さもありました。病気のことは、家族も僕も、声高に言うことではないかなと思っていたから、取材はもちろん、人前で話すこともありませんでした。

ずっと自分は心に思いが続いてきて、大学卒業にあたって、社会人では東京のチームに行くことが決まっていた。もうさすがに、会っておかないとと思った。それが、思い切れた理由でした。

行ってみてやっぱり忘れられていたら、もっと早く会いっておけば良かったと後悔するしかない。で、会ったら覚えてくれていた。看護師さんに聞いたら、ふだんはあまり笑わない、と。『これは、息子さんが来たこと、わかってらっしゃいますね』と言われて。

「なりたくない」って言ってた母親が、母のままでいてくれて。なんとも言えない感情でした。本当に申し訳ない気持ちと。うれしい気持ちが。ものすごい勢いでいっぺんにきて。

そういえば、そのあとに大きなケガをしたのも、自分がラグビー以外のことに向き合うきっかけでした。1年目の7月に前十字(靭帯)を切ってしまった。1年間はプレーできませんと言われて。ケガ人ってイベントを担当したりするので…

今度こそ変わろう、と思い動き続けている人は、いつかきっかけをつかむ。そう信じていて、戦う人のためにできることをしたいと願う。

司令塔でキャプテン、いつも人の輪の真ん中にいたラグビーマン喜連航平のイメージと、わかっていても変われない自分を抱えてきたという心の地層の間には、大きなギャップがある。それを抱えていたから、ラグビーでがんばれたと本人は振り返る。アクシデントやケガが起きても、きっと今も、「だから、俺は変われた」といつか振り返れるよう日々を、歩む。


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