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吉川 淳二(RCCAメンバー)「独特の絆、というけれど」
〜コミュニティの背景がわかる、RCCAメンバーのストーリー〜
2023.2.15
INTERVIEW

吉川淳二(きっかわ・じゅんじ)
1968年生まれ、54歳。神奈川県立二宮高校でラグビーを始め、中京大から(株)伊勢丹(当時)へ。全国社会人大会ベスト4など同チームの隆盛期を支えた。30歳で現役引退。その後の社業では法人外商事業部一筋。オリジナルの販促品開発に、企画から生産まで関わった。二人の子の自立を機に、2020年に三越伊勢丹を退職し、株式会社KICCAを設立。現役時代のポジションはFL(フランカー)。185㌢、103㌔。

RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。だけど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているんだろう。吉川さんはニュージーランド留学や、日本トップレベルの競技経験を持つラグビーマン。「ラグビーは特別な絆があると言われるけど、自分にとっては自然なことが多い。大人になるにつれて、周りにそういう人が増えてきたと感じます」。独自の感性でプレーし、働いてきた吉川さん。ラグビーの振る舞いは自分の一部だ。


息子さんは吉川 遼選手(千歳中→國學院久我山→ワイカト大→ラグビー選手)。お父さんの作る料理が好きなんだとか

「息子が中学でお世話になった千歳中(東京都)では監督の長島先生(章)の教えがすごく印象的でした。選手に指示をしない。いつも、自分で考えなさいというスタンス。初めは本当に弱いけれど、中学生自身がどんどんラグビーがわかってきて、後から伸びる。もう一つはタックルを怖がらないようにさせてやりたいと。これはいいなと思いました」

相手になるべく当たらずに、抜いていく発想ですね。

「そういう工夫をするとこが、ラグビーって面白い」

伊勢丹での選手時代

「体育3」からトップレベルへ

吉川さんご自身は、神奈川の公立高でラグビーを始めたんですね。

「私は小学校時代から体育が苦手で。通知表はいつも3でした。走るの遅いし、持久力もない。中学校ではバスケ部に入りましたが5軍でした。試合に出られなくて、いつも声出し要員。『オーセオッセー』ってね(笑)。で、ある雪の日に体育の先生が『きょうはもう、ラグビーでもやるか!』って言い始めて。やってみたら、ボール持って自由に走れるし、こんなに面白いスポーツがあるんだ! って。運動苦手な私が思ったくらいでした」

体育の先生はラグビー経験者だったのでしょうね。

「いや、それがハンドボール部の先生だったんですよ。で、高校に行ってラグビーやりたいなと思って。あと高校生になったら絶対に学ランを着たいと思っていたので、私の住んでいた西湘地区だと二宮高校に」

強かったんですね。

「いや全然。ラグビーできればそれで良かったので」

のちには社会人で全国トップ4までいくチームでプレーするのですから、身体能力には自信があったのでは

「いえいえ、だって体育3の子ですよ。ただ、高校の監督も自由にさせてくれる先生だったので楽しかった。『大学行きたいなら、推薦してやるぞ』って言ってくださって。話がある進学先として『チュウオウ』が出てきた。受けることにしたら、大学が名古屋にあるって言う。よく聞いたら『チュウキョウ』だった。まあいいや、地元離れてみるのも面白いかなと。極端に強い大学行っても出られないかもしれないですもんね。中京ならチャンスがあるかもしれないと思った」

それが、社会人トップレベルでもやろうとするほどにハマるんですね。

「ウチの大学、トヨタ自動車と練習試合をやる機会が多かったんですよ。そこで相手の1本目と、いい試合することもあった。で、社会人でも俺、いけるんじゃないか? と思うように。そこに伊勢丹の石塚武生(元日本代表FL)がいらした。私の大学の先輩がリコーにいて、石塚さんに私の存在を伝えてくださっていた。これからのチームで、面白そうだと思いました」

当時はトップリーグ創設前で、伊勢丹(現・三越伊勢丹)は東日本社会人所属。トップチームですね。仕事の方への興味はあったのですか。

「初めは全然なかったんです。うちは親父が建設業。いったん社会に出て、いずれは自分か弟がそれを継ぐのかなというイメージもあった。その頃 家で『お前、就職はどうするんだ』って聞かれて、社名をきちんと答えられなかった(笑)。『一応、声をかけてもらってる。…なんとかタンっていう会社』なんて言ってるくらいでした。『新宿にあるらしいよ』って(笑)。家業は今、弟が継いでいます」

仕事も結局、現役引退後まで続けるのですね。

「引退後約20年、同じ部署にいた珍しいケースでした。法人外商。入社時の研修でその仕事を知って、すごく面白そうだった。で、引退のタイミングで希望が通りました。百貨店は普通は売り場でお客様をお待ちしている商売ですが、この部署は、外へ出ていろんな人と出会いながら仕事を作っていく。値段も自分で決められるんです。扱っていたのはプロモーション・アイテム。たとえば、化粧品のキャンペーンにポーチをつける。そのポーチを企画からメーカーやブランドに提案して、交渉、仕入れ、生産までやる」

現役引退は何歳で?

「30歳でした。ヒザが限界でした。ラグビーでは。実は引退後に極真空手もやりました。当時はK-1が全盛期で、優勝して藤原紀香と食事しにいくのが目標。後に長谷川京子に変わりましたが(笑)」

ニュージーランド留学時の試合観戦

ラグビーも人生も。創意工夫があるから面白い

ラグビーは極真に役立ちましたか。

「ラグビーから極真はスムーズにいけると、個人的には思います。空手は5年間やったのですが、ラグビーはやっぱり面白いと思った。自分の器と目標があって、そこに近づくためにいろいろ考える。長島先生(千歳中)ではないですが、個人やチームの判断がとても大事。いつか南ア代表LOのマットフィールドが、『どんなに優れた戦術があっても、個々の局面ごとの判断がなければ機能しないのがラグビー』と。本当にそう思います。ニュージー(ランド)やオーストラリアが強いのは、まさにそこ。究極、触られなければトライは取れる。そのためには? と考える。それを、あの激しい肉弾戦の中で創意工夫するのが面白いし、奥が深い」

RCCAとの関わりは。

「伊勢丹時代に後輩だった一聡(高橋/RCCA代表理事)のつながりです。同じポジション。私、試合中は結構荒っぽい方で、悪目立ちしている面があったのですが、もっと激しい奴が来た(笑)。悪いと言ってももちろんルールの範囲内です。密集の中で倒れている奴はボールと一緒に出してました。一聡は伊勢丹が廃部になった時に会社を辞めたはずです。後に私が会社を辞めたことを知って連絡をくれた。一聡は2020オリンピックで、爆発物などをチェックする警備犬などのマネジメントをやっていたのですが、それを手伝ってほしいと。その後、東京ラグビークラブ(RCCAの着想の起点となったイベント)にも誘ってもらった。コンセプトがよかった」

ラグビー現役時代にはニュージーランド留学もしていますね。

「英語研修ということで3か月行かせてもらいました。伊勢丹のクリス(オニール/当時伊勢丹SH)の実家の農場で、毎日、牛の世話をしていました。朝6時から枯れ草を撒いて…。ラグビーの練習は平日2回、週末に試合。北島中央のタラナキという地区でした。みんなパワフルで、ラグビーそのものが荒かった! 僕はそういうの大好きなので、肌に合いました。当時まだ日本は今ほど強くなかったから、日本人というだけでみんなナメてかかってくる。反骨心いっぱいにプレーしていました。試合でお互いやり合った後は、相手チームの選手も関係者も混ざり合って飲んでは話し…。楽しかった。クリスたちニュージーランダーは、伊勢丹でも『試合後は一緒に飲もう!』って声かけしてくれていた。当時の日本のチームの中でも、そういう文化的な面のレベルはいい方だったと思います」

吉川さんが経営している宿泊施設「KAMAKURA VACTION HOUSE」

ラグビーの気質。本当は自然なこと。

ニュージーランドの空気も吸ってきた吉川さんとして、RCCAで進めたいこと、特にサポートしたいことはありますか。

「すぐ身近にできることはある気がします。私などが気が付くところだけでも…。たとえば、ジャージーのリサイクル。今は、社会人だけでなく大学生も契約メーカー支給の練習ジャージーなどを着ていますよね。シーズンをまたぐとスポンサーなどの事情で着られない場合もある。それを処分せず、高校生や中学生に着てもらうことはできないでしょうか。中高生の選手の家庭にはいろんな状況があるから、ジャージーが受け取れたら助かるだろうし、まして大学のジャージーならうれしいんじゃないかな。着るものって、高いでしょう、今。こういうことって本人が声を上げないものだから、見えないことが多い。でも、厳然として課題はそこにある。誰かが気づいて動けたらいい」

あるのに、見えない課題。

「子供も大人もいろんなスポーツをやっていいと思う。ただ面白いって思うなら、ラグビーを続けてほしいなという気持ちです。障壁は取り除きたい。ウチの家内が言うのですけど、ラグビーの人って、変な人が多いって」

えっ

「なんか変な集団だよって。この横のつながりは何なの? って不思議がっています。よく知らない人の就職世話したり、会ったこともない人の面倒見たり。相手はただ、ラグビーやってたってだけでしょう? と」

吉川さんは、高校時代に始めた時から、ラグビー独特のそのような空気を感じていたのですか。

「いいえ、全然(笑)。よくラグビーの絆は独特だと言われるんですけど、どちらかというと、自分個人にとってはどれも自然なことです。成長してラグビーでいろんな人に会ううち、あっ、他にも同じ感覚の人がいるなあって思って過ごしてきました。放っておけないというか、できる範囲でちょっと手を貸せる空気。そういう気持ちって、回り回ってまた自分のそばにかえってくるものですよね。それがまた、面白い。FWは特にその傾向が強いって言われますよね。あと、FWみたいなBKの人に(笑)」

RCCAは、その循環を目に見えるようにしていくのも活動の一つですね。

「組織という意味でも、見えないのはだめだと思うんです。部屋の中で何やってるんだろう? と思われたら、外から入っていきづらい集団になる。そのつもりがなくても、あいつら仲間うちで固まっているなあと思われたら、入りづらいでしょう? 外の人から見通せて、誰でも仲間に加われる空気があるといいな。そのためには、僕たちが常にオープンにならないと」

「私は、イベントなどに人を誘っていくのですが。なるべく、ラグビーに縁のなかった人、まだRCCAをよく知らない人を連れていったりします。違う世界の人が触れることで、また何かが生まれる。外の人にも面白そうだ、って思ってもらえる集まりでありたいですね。そうでないと、まず私、自分が『面白そう』って思えないから」


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