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光武裕紀(RCCAメンバー)「RCCAが、いま僕の所属チームです」
〜コミュニティの背景がわかる、RCCAメンバーのストーリー〜
2022.10.16
INTERVIEW
光武裕紀

光武裕紀(みつたけ・ひろのり)
1974年生まれ。千葉県出身。Let’s株式会社 取締役。高校で楕円球を手にすると決め、千葉県野田市から國學院栃木へ1時間半の「通い」を貫いた。ポジションはFL。172cm、78kg(現役時)。高校卒業後は陸上自衛隊に在籍しながら、夜間で通った専修大学を卒業。その後、マーケティング、芸能、議員秘書などを経て、2014年より現職。人材派遣、学生の就職支援を行なう。趣味は、ラグビーと音楽フェス。フェスは年間4、5会場を訪れる。家族は妻の佳子(よしこ)さん。

RCCA(Rugby Community Club Association)が伝えたいものは、たくさんあって一言ではちょっと表しにくい。だけど、そのメンバー一人ひとりのストーリーを紐解けば、コミュニティーの持つ空気や、バックグラウンドが見えてくるかも。彼らはどこから来たんだろう。何を目指しているんだろう。11人目は、音楽とラグビー、そこに集う人をこよなく愛する情熱家にして愛妻家、ミッツさんこと光武裕紀さんです。

光武さんは、RCCAの運営ミーティングに毎週、出席されているって本当ですか。

「そうですね、毎週その時間帯は空けるようにしていて。私なんて何ができるわけじゃないんで、明確な役割はありません。ただプランを実行に移すときには、行ってお手伝いをしたり。何か役に立てたらいいなと思っています」

時間に融通が効くんですね。どんなお仕事をされているんですか?

「人材派遣と、学生の就職支援を合わせたような事業です。元々の流れで言うと、学生たちに無償で就職支援をしていた時代があって。今では年間に200名ほどの学生と接します。派遣数は、のべで5000人くらいですね。一人ひとりの学生とは1年半くらいの付き合いになるので、私も学生もいろんな経験をします。個人面談で本質的な話になると、感極まったり、悔しかったりで泣き出してしまう学生もいます」

RCCAへの関わりは、どんなきっかけなのですか。

「私、趣味がラグビーと音楽のフェスなんです。たまたまライジングサン(北海道で開催される)に行った時に、一聡さんが出していたお店があって、『あっ、高橋一聡がいる』と思って。『ソーセージ焼いてる!』って(笑)。一聡さんのほうから声を掛けてくれたので、お話しして。私、國栃(國學院栃木高校)です――えっ俺、久我山。――いや知ってますよ! って。そのあと、朝霧JAMに出店すると聞いて、遊びに行ったんです。一聡さん、覚えてくれていて。『あっ、國栃の!』。その辺にあった紙コップに連絡先を書いて交換して。それから色々ご一緒することになりました」

「何か面白いことをやるんだな」は今でも

RCCA設立の、はるか前のお話。

「今思うと、RCCAの構想は、立ち上げの2年くらい前から聞かされていました。ちょうどコロナの時期になって、本業の仕事は対面が中心だったから、時間だけは結構あった。それで、RCCAの方の定例会議には毎回出てきました。初めは『何か面白いことをやるんだな』。それが何なのか、本当は僕自身まだわかっていないかも。だけど、次々とアクションは起こしていて。状況はどんどん進んでいます。その中で僕自身に特別な役割があるわけではないけれど」

お仕事とラグビーと、共鳴する部分はありますか。

「うーん。はっきりと意識はしていなかったです。ラグビーはずっと趣味だったから。30年前にプレーから入って、社会人になってからは『SANYO RFC』というクラブチームに長く所属させてもらいながら、1ファンとしていろんな試合を観に行っていました。ただ、私も48(歳)になって、このスポーツをもっと知ってもらいたいなと考えるようになった。自分が作ってきた知識や、何かしら持っているものを周りの人に波及できないかなと。それができそうな器を、RCCAには感じています」

母校は、前回の花園(高校全国大会)では大躍進でしたね(國學院栃木は初の全国準優勝を遂げた)。

「ありがたいですよね。後輩達が頑張ってくれました。花園は毎年、応援に行ってます。うちの監督(吉岡肇 氏)は当時から、『お前たち後輩(現役)が活躍し続けることで、このグラウンドで泥だらけになって頑張ってきたOBも、胸を張れるんだ』って言ってました。今、現役や私たちOBに話すことを聞いていても、すべて一貫しているなと感じます。それって得難いことですよね。後輩たちが戦績を残し始めて、あらためて思う」

ラグビーは高校で始めたのですね。

「私、千葉県野田市の出身で、学校まで片道1時間半かけて通っていました。國栃にしたのは、中学の時、スポーツで全国大会に行くには、って考えた結果でした。それが、中3の時に決めた夢だったから。國栃だから叶えることができました」

最初の就職は自衛隊だったと聞きました。

「そうそう。今度は『日本で一番、体がしんどい組織に入りたい』って思って。陸自でした。高校時代に見た次の夢は、菅平(長野県上田市)にペンションを持つこと。父母が楽しめるところを作りたいと。18歳の時ですね。もう一つは母校の国栃に芝のグラウンドをプレゼントすること。これは数年前に学校が作ってくれました。僕の夢は結局、まだ二つとも叶えられていないな」

自衛隊をお辞めになったのは

「先輩方を見ていて、学がないと夢を叶えるための先が見通しづらいなと感じたんです。それで昼は陸自、夜は夜間の大学に通い始めた。入隊2年目にサリン事件があり、阪神淡路大震災もあった。神戸には仕事で入りました。24歳まで重要な経験をしました。大学は25歳で卒業。その後は3年ごとに仕事が変わりました。今の会社は六つ目の勤め先になります。その間もライフワークとして一貫していたのが、実はラグビーとフェスです。ラグビーでは、25歳から去年(2021年)まで、SANYO RFCに所属しました。多くのことを学びました。自分よりも五つも上の先輩が、プレーする情熱を持ち続けているのを目の当たりにして、凄みを感じたり。家族みたいな存在でした。『お前のチームは』って聞かれたら、僕にとってそれはずっ…とSANYOの人々でした。昨年、残念ながらチームが解散しました」

ラグビーがくれた出会い、たくさん。今のチームも。

「伝えたい」ことは、そうしてご自身の中で蓄積していったんですね。

「2019年も大きな出来事でした。2011年大会のニュージーランド大会は現地に観に行ったのですが、『これって、ニュージーだからできる雰囲気なんだよな』って思っていました。それが、いざ大会が来てみたら、あのワールドカップが日本らしい形で実現していた。自分もその中にいた。2019年はチケットを11試合取って、10試合観ました。観られなかった一つは、フランス×イングランド。台風19号で中止になったカードです。私、実はその試合に、チケットを用意して吉岡監督をお誘いしていました。これこそ一生に一度だ! と思い切ったけど、誘うのは緊張しました。我ながら、そんなことする人、他にいないと思います。監督、おう行くよって言ってくださって、うれしかった。その後、監督には、お前のせいで中止になったって怒られましたけど(笑)」

「マーケティング、芸能、政治といろんな経験をさせてもらいましたが、ラグビーには普遍的なものがあると思います。その最高峰のワールドカップが日本に来た。世界中から人々がやってきて、最後は一緒に写真に収まって、ビールを飲んで笑い合う。そういう文化を知ってもらえて、日本でラグビーがみんなのものになった。それ体感して、うれしかったすね。ラグビーをやってきたことに僕自身も誇りを持てました」

奥様に出会ったのもラグビーきっかけなんですって?

「はい。一聡さんが明治学院を教えていた頃、入替戦を一聡さん共通の知り合いが何人かで一緒に応援に行くことになって。その試合に勝ったのが良かった。知らない男女同士で祝杯に行ったのが最初です。5年前に結婚しました」

キューピッドの一聡さんによれば、そのメンバーで東北の支援(被災者ペット支援)に行ったのですね。独身男女がワゴンで運ばれて。一聡さんは「みんなが犬やその家族のために動いてくれた」って言っています。

「共通の体験をして距離は近づきましたね。ただまあ、自衛隊の経験もあって、できることはお手伝いしたいなというだけで…。僕ら一人ひとりでは何もできないですから。お互いそうだったと思います。私は、人との出会いには恵まれました。確かに、妻と、ラグビーで繋がったのはよかったかも。ワールドカップで11試合もチケット買ったじゃないですか。その時の説得も『俺たち、そもそも、ラグビー場で出会ったんじゃないか』って。で、最後は『4年に一度じゃない、一生に一度だ』。今、うちの奥さんもだいぶ詳しくなりました。リーグワンの選手を見て『あれ、この人、◯◯にいた選手じゃない。移籍したんだ』って言うくらいには、なりました」


2019年のワールドカップで教え子に観戦に誘われた吉岡肇監督は、本人が緊張しているとも知らず気楽に返事をしたそうです。「光武、5期だからOBの中ではベテランの域。私がまだ青年監督だった頃だ。あはは。選手と距離も近かったな」。思い出深い時代の教え子の誘いは、恩師にとってもワールドカップが連れてきた幸せの一つでした。

ミッツさんが人と揺るぎないつながりを築くことができるのは、彼が足を運ぶ人、ひたむきに動く人だからではないでしょうか。求められれば、すぐに飛んで行って話を聞く、黙々と手を動かす。それは周りから見れば、明確な役割に映ります。FLにも似ている。「僕は高校でやってただけの普通の選手で」。ミッツさんは言います。「だけど、自分みたいな人がRCCAには増えていいんじゃないすかね」。かつて高校で、クラブチームで、多くを学んだミッツさんは胸を張ります。

「今、お前のチームはと聞かれたら、RCCAって言えます。スパイク持ってないすけど」